入会のご案内

鳥取ユネスコ協会は30年の歴史がある

鶴田会長時代 1975(S50)~1981(S56)

1975設立総会が福祉文化会館で行なわれた。発起人代表「鶴田憲次先生」が初代会長。発足間もない会が、なんと「中国ブロックユネスコ活動研究会」を引き受けてしまったのです。鶴田憲次会長の心意気たるや、実に偉大なものであると言わざるを得ません。事業としては「日ソ青年交歓の夕べ」「合唱と映画の会」「ガン撲滅運動」「中近東の青年との交歓会」をやりました。 さあ、もう少し頑張ろうと3月に「ヨーロッパの文化と日本」というテーマで講演会に桑原武夫先生を招いて行なっています。 内実は1979年度に「全国大会」が予定されていたのです。

いよいよ「全国大会」です 1979年(S54)10月6~8日

「青年会議所」(JC)(当時涌本会長)会員の応援を全面的に受けて行なわれ、宮城まり子さんを招いて文化講演「紀元2000年私の生活」。 鶴田会長の、まさにユネスコ人としての輝ける日でありました。全国からユネスコ人が集まったのです。更に「曽野綾子さん」の文化講演「人間を創るもの」も行なわれました。

ユネスコらしい事業始まる でも、ああ 初代会長 死去!!

1981年ユネスコらしい事業である「こども英語教室」が始められました。その時、初代会長「鶴田憲次先生」が残念なことにお亡くなりになりました。(9月)

遊びながらからだで覚させるデボラ先生

2代、松岡新平会長時代 1981(S56)~1984(S59)

後継は医師の「松岡新平先生」。早速始まった事業に「こども文庫へ図書を寄贈する」(日ユ事業)が行なわれました。更に、医師の本領「医学講座」「自然科学講座」「薬草講座」が行なわれました。5年目を迎える鳥取ユネスコの設立記念に「浮世絵展」も行なわれています。次の年、叉会長がお亡くなりになりました。本当に何とした事でしょう。

濱本会長時代 1984(S59)~1991(鳥取ユネスコ10周年))

3代会長に濱本愿(すなお)先生が就任。その1984年は10周年に当たります。記念講演は「世界の人々」と題し、ピーター・ジョセップ氏が招かれました。その他「外人交流会」「古本市」「絵画展」「生活展」など、又「パリー木の十字架少年合唱団」公演などと大変な勢いです。1985年も大活躍です。8月、面白い「民族衣装ファッションショー」が行われました。女性会員がショーをやったのです。良かったですよ! 叉、アメリカのフォーブス氏を招いて「気球を飛ばす」なんてこともありました。この年から「コーアクション・すべての人に文字を!」の街頭募金が始まりました。「ユネスコ祭り」を行ない(1988)「こんにちは、地球家族」の映画、バザー、英語教室の発表会、メインは浅野先生の「アジアは一つ」の講演を行なっています。叉、若木ローズメ先生の講演「フランスと日本あれこれ」、池澤正子先生の「スペイン舞踊」も行なわれています。 叉「菊池ひみこ、松本正嗣ジャズコンサート」をやっています。この年「天皇陛下がお亡くなり」になりましたので、世は昭和から平成へと代りました。

また会長逝去1991(H3)、大事業を控えて!その他

「鳥取県ユネスコ連絡協議会の設立」が行なわれました。濱本会長による事業で、今までは、各ユネスコ(県内)が独自に行動していましたが、ここに来て県内のユネスコ協会が横の連絡をとる会が設立されました。この年11月に「JAICA」と「日ユ」の共催「21世紀のための友情計画・中国青年指導者」25名を鳥取ユネスコ協会が受け入れて、ホームステイなどをやりながら交流することが決まりました。この時なんと「濱本会長」が入院され、お亡くなりになったのです。(10月) でも、事業は中村副会長をはじめとする幹部達が代理を勤め、スムーズに運営がなされました。中でも鳥取大学学生たちとの交流会は、本当に「中国への理解」が進み、学生にとって大変な収穫があったと思われます。叉、ユネスコも、希望の会員家庭に中国青年指導者のホームステイを引き受けていただき「日本の理解」に大いに役立ったと思われます。このことは、中国の人と個人的にも親しくなり、通訳の方(中国人も何人か?)とも個人交際の機会になったのです。

中村会長時代 1991(H3)~2003(H15)

1992(H4)中国を答礼訪問する事になりました。 中国の会長の所は、貴州省・貴州市であり、中国の南部奥地に相当する所です。大変なところですが、「日本画」(南画)で名高い「桂林」が近く、見たいと思っていた所なのです。一行6人、メンバーの中に、現会長「湊先生」も加わっています。 勿論、前年の答礼訪問ですので、貴洲の会長以下多くの方々の歓迎を受けました。そして、北京、万里の長城、桂林、上海、等、世界遺産も見る事が出来ました。 会長、県ユ連会長となる。最初濱本会長が設立された時よりずっと衰退気味でしたが、中村会長が県連の会長兼任となり、活性化されました。1994(H6)

鳥取ユネスコ20周年記念 1995(H7)

なんと、鳥取ユネスコも20周年を迎えました。 式典は「鳥取文化センター」で(5月13~14日)行なわれ、その時作られ発表されたのが、「鳥取ユネスコ20年」の歌です。(30年として30周年記念誌には出ていますが、20周年目に出来たのです)作詞・現、中村名誉会長、作曲・安本相談役です。 20年と限定せずに「毎年、年数をかえて歌いましょう」という事なのです。

併せて、「青年ユネスコ in TOTTORI」設立さる(同年)

「若い人の力で、ユネスコを活性化したい」とは、最近ずっと云い続けて居る課題です。この年、青年の方たちの盛り上げで「青年ユネスコ in TOTTORI」と言う青年グループの協会が創られました。(10/2)青年部でなく、独立協会です。初代会長は小谷寛氏です。

この年、日本ユネスコ協会連盟、設立50周年!1995(H7)

表題の「記念式典」が東京で行なわれ、当会の「中村会長」が「文部大臣表彰」を受賞されました。鳥取ユネスコがよく活動しているためです。ユネスコ協会の活動は、県や市の主導でやっている所が少なくありません。民間のNGOとして運営はなかなか大変なのです。そういった中で、会長の表彰は「鳥取の協会が優秀である」事の証です。これは「会員全部の表彰」であると考えて良いと思います。会員全部の協力があってこそ成り立ち、活動出来るものなのです。

この年、インドに日本語の辞書を贈りました。1996(H8)。
この運動は大きな成果を収めました。なんと657冊もの辞書が集まりました。(でも、送り代は高いですね。だから持って行くことになりました)

支援してきた「バングラデシュ」の寺子屋・視察(同年度3月)

今まで、日ユの事業で、発展途上国に寺子屋を造っています。鳥ユは「バングラデシュ・ケラニガンジ」の寺子屋を支援していますので(第一期)、その視察を兼ね、前項の辞書をインドに持って行ったのです。

主目的である「バングラデシュ・ケラニガンジの寺子屋」…本当に途上国の子供たちは、学校に行けないのでしょう。第一勉強する為の建物が???
ケラニガンジ寺子屋でも、バラック建てやら、他所の軒下を借りて勉強していました。可愛想ですねえ、やっぱり支援の必要があります。
まあ、ついでですからインドの世界遺産「フマユーンツーム」「クトブミナール」(デリー近く)や、「タジマハール」「アグラフォート」(アグラの中)も見たわけです。

バングラデッシュユネスコの会長と

インドには見るところが沢山あります。みんな、目を見張るようなものばかりでした。
この年「チャリティバザー」を始めています。「コーアクション」(街頭募金)も続いていて(これははっきり寺子屋運動ですが)、目的金額(10万円)に達しません!そこで、会員が、不用品などを寄付してチャリティー販売を行い、寺子屋募金などに当てたのです。

わたしの町のたからもの「絵画展」始まる1998(H10)

日ユでは初めての事業として「世界遺産活動」に協力する意味で小、中学生の(自分たちの感覚で)地域の宝物である、文化や自然を「絵に描いて」広く知って頂こうという活動です。 鳥取ユネスコでは、今回(第一回)から、この事業に加わり、学校のご協力を頂いて「絵画展」を開催しています。応募は数百点もあり、上位3点は日本ユネスコに送られます。(この展覧会は、以後ずっと続けられています)

日本ユネスコ連盟理事長賞

韓国忠淸北道ユ協と交流始まる 2000(H12)

忠淸北道ユ協とは、この年以前から交流はあったのですが、いよいよ本格的な交流をする事になり、韓国清州市を訪問したのです。
向うのユ協の歓迎を受け、交流会を開催して頂き、清州の誇りである、古印刷博物館を見学させて頂きました。
古印刷は、世界遺産に登録されているのです。

呉世卓先生(韓国忠北ユ協)来鳥、講演会は大盛況 2002(H14)

呉世卓先生は、東京大学の研究教授でした。「日韓交流」の講演でしたが、鳥取大学の学長さんもお出でになる、という盛況ぶりでした。
そんな大先生のご来鳥がありましたので、次の年は大挙して「韓国交流のツアー」が行なわれ、10名の参加があって韓国側も、大変お喜びになりました。その時「韓国の世界遺産」を見学する事も出来たのです。

湊会長時代 2004(H16)~

この年から会長交代(中村会長は12年続き辞任されました。現在名誉会長)初年度は、前年事業を継続、翌年は大事業が待っています。

鳥ユ30周年、同時に中国ブロ研究会開催、韓国ユ交流5周年

2005(H17)は下記3つの記念の年に当たります。「3T事業」と称して、大々的に行なわれました。

  1. 中国ブロックユネスコ活動研究会は、「佐古和枝先生」の基調講演「国際交流が育んだ日本海文化」の後、各県代表の事例発表など、定例どおり行なわれました。
  2. 韓国忠北ユ協との文化交流会は、韓国会員12名の到着を待って、鳥取県内スタディーツアーが行なわれ、「うなばら荘」で記念交流会が行なわれました。



  3. 鳥ユ30周年記念事業として、
    ・中ブロ研究会場には「絵で伝えようわたしの町のたからもの」絵画展の昨年度の全国優秀作品30点も30周年を記念して展示され、大盛況でありました。
    ・30周年記念表彰で、中村名誉会長、尾崎久子教育事業委員長が表彰されました。
    ・30周年記念誌の発行。等があり、中ブロ研究会時、併せて記念式が行なわれました。

日韓文化交流始まる 2006(H18)

韓国忠清北道ユネスコ協会と交流が始まってから5年以上になります。そこで、何か具体的な交流はないものかと、韓国共に考えたのが「子どもたちの絵画展」の交流でした。
日本では、「わたしの町のたからもの絵画展」が長年続けられていましたので、この優秀作品を出展者に了解の上、韓国に送りました。韓国からも子どもたちの「絵画」が送られて来ました。絵画展会場は今までより賑やかになり、県民文化会館フリースペースは入場者1200人を越える大盛会でありました。

民間ユネスコ運動60周年を盛大にお祝いしました 2007(H19)

日本ユネスコ協会連盟で、「民間ユネスコ運動の日」が決まりました。
写真7月19日です。これは、未だ日本が「国連」にも加入していない時、仙台で「ユネスコに協力しよう!」と1947年7月19日仙台ユネスコ協力会が出来た日であります。

日ユ協でも、各地ユ協でも、盛大な祝賀会が行われました。
鳥取ユネスコ協会は、白兎会館で、7月19日をお祝いする会(一般参加歓迎)を行いました。日ユから「鈴木幹夫理事」にお出で頂き、「基調講演」をしていただきました。

「絵で伝えよう!わたしの町のたからもの」絵画展で最高賞に 2007(H19)

子どもの絵画展が10年になりました。「鳥取市立西郷小学校2年漆原瑞紀」さんの「大きい牛」が最高賞・日本ユネスコ協会連盟会長賞に選ばれたのです。大したものですねえ!

「ジオパーク」を知っていますか?と大いにPR 2009(H21)

「世界ジオパークネットワーク」は、ユネスコの支援で創られたものです。
「山陰海岸ジオパーク」の認定運動を、3府県で(行政が主となって)力を入れていますが、ユネスコのことです、「私たちもやりましょう!」と、PRを始めました。

「山陰海岸ジオパークのエリアに始まり、地質学的な貴重な美しい公園のような所、そして、公的機関と民間とシッカリした運営がされること、叉社会的経済的に利用されていながら普及にも努め、保護すること」これが、ジオパークのユネスコとしての「趣旨」であります。

鳥取ユネスコ協会の重要人物「副会長矢谷まり子さん」と「前知事夫人片山弘子さん」がお亡くなりになりました 2009(H21)

矢谷さんは、その実行力で、鳥ユを引っ張ってこられた人です。片山さんは、持てる文才は、敬服の至りでありました。さらに御活躍は凄かった人です。
鳥ユとしては、悲しみに耐えません。ご冥福をお祈りいたします。

田中会長となる 2010(H22)年度より

湊会長が会長職を退かれました。次の会長は、田中勢一郎さんに決まりました。田中さんは、今まで各委員会で進めてきていた事業などを、「会員一丸となって事をやろう」と改良され、旧理事会も「お話会」という名目で、和やかに皆で話し合って進めるよう改良されました。

「2010中国ブロックユネスコ活動研究会in倉吉」2010(H22)

中ブロ研究会は各県持ち回りで、2010年は、鳥取県の当番!県内でも「倉吉」の担当でありました。とはいえ、鳥取も、米子も、協力してこそ成功したのです。

テーマは、「世界遺産を目指す三徳山投入堂」「山陰海岸ジオパーク」「未来遺産運動として麒麟獅子舞」の3つを上げ、それぞれ基調講演をお願いしました。三徳山投入堂の講師は、「米田三徳山三仏寺住職」。山陰海岸ジオパークでは、「西田良平鳥大名誉教授」。未来遺産運動では、(2009より始まった日ユの事業)講師として「隠岐の島、風待ち海道倶楽部の野辺一寛先生」。そして、大会始めのイベントに、未来遺産運動を目指し「麒麟獅子舞」を舞っていただきました。パネルディスカッション、各県ユ協の発表と、大成功の内に終わることが出来ました。